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トップページ広瀬川の記憶vol.20

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広瀬川の記憶 フリーライター/西大立目祥子さん
vol.20 関山街道の通行を守り、山間地の暮らしを支えた野川橋

■天野橋をバスで渡って定義へお参り

  付近の地形の説明をしておこう。熊ケ根の裾を深い峡谷をつくりながら東流する広瀬川は、道半の北側で大きく蛇行する。そこに北から青下川、わずか下流に大倉川が流れ込む。聞けば、道半は、仙台市が政令市になるまで宮城町ではなく秋保町だったのだそうだ。確かに、地図を広げ、熊ケ根橋がつくられ国道48号が開通する以前を想像すると、地区の北側は広瀬川の崖にはばまれ、南の秋保町と一体だったことに納得がいく。

 道半でクリーニング店を営む佐藤いせさんが、おもしろい話をしてくれた。「うちの前にバス停があって、定義さんにお参りのバスが走ったの。野川橋渡って、天野橋渡って、崖上がってね」。

 はてさて、天野橋とは─。住宅地図で見ると、青下川の広瀬川との合流地点に小さな橋が描かれている。名前は記されていないこの橋が天野橋だろうか。

 杉の林の中につけられた轍(わだち)の跡をたどっていくと、ぼうぼうと草の生い茂る中に、朽ちかけたコンクリート橋が姿をあらわした。草は橋の上を覆い、もはや欄干も、橋桁も崩れ落ちそうだ。斜めになった欄干に「昭和十一年四月竣工」の文字が読み取れた。いつ頃まで人が行き来したのだろう。

朽ちかけた天野橋欄干に記された竣工年

 資料にあたると、天野橋は芋沢出身の天野政吉なる人物が私財を投じて架け、 昭和11(1936)年から14年まで、陸前白沢駅間と定義間にバスを運行させたとあった。対岸の崖はバスでは困難で、乗客は徒歩で上がったらしい。

 天野橋と運行したバスのことは、道半や熊ケ根の人たちに、まだ記憶されていた。「ボンネット型の木炭バスだったようだね」と武田さん。「何でも材木を運んだりするのに車を走らせたっていう話じゃないの」と高橋さん。そして、「私は昭和24年に、大倉からトラックに乗せられて天野橋と野川橋を渡って道半に嫁にきたんだよ」と太田さん。天野橋は、昭和36年に大倉ダムができて道が整備されるまで、大倉と白沢駅を結ぶ最短ルートだったのだ。

天野床屋で 白沢駅前には、「天野床屋」と看板を掲げる理髪店がある。訪ねてみると、果たして、橋を架けた天野さんのご子孫だった。

 天野礼子さんが「天野政吉は、父の兄。自動車会社を経営し、材木商もしてて山から木を伐り出したりしてたみたいです」と話してくださる。急坂で難儀した話になると、ちょうど散髪を終えたばかりの高橋美智夫さんが「おっきな石にワイヤー掛けて、いったん停車して、それから上がったらしいよ」と教えてくれた。高橋さんの家は、昭和6(1931)年から白沢駅前で足袋を売る商売をしていたという。

 昭和6年と聞いて、仙山線の開通年だと思い至った。昭和4年に仙台〜愛子間が開通した仙山東線は、6年には作並まで延長開業された。このとき、広瀬川の左岸を通って定義にお参りに歩いた人たちは仙山線を利用するようになり、にわかに白沢駅前がにぎわいをみせたのではないだろうか。機が熟したのをみて天野氏が橋を架け、観光振興策に打って出たに違いない。



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