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トップページ広瀬川の記憶vol.16

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広瀬川の記憶
         掲載日:2008年04月10日
   フリーライター/西大立目祥子さん
「一銭橋」の記憶を残し、里と町場をつなぐ宮沢橋


メイン写真

架橋されて10年後の宮沢橋。戦後すぐの水害のあと堤防が築かれ、
昭和30年に悲願の永久橋が架けられた。
撮影/小野幹 昭和40年(1965)4月



■「根岸の里」の小さな木橋

 手前から静かにせり上がっていく道の感じと、右上の杉の木立ちで場所の見当はつくだろう。「宮沢橋」を広瀬川左岸上空から写したものだ。対岸は太白区根岸町、手前は若林区河原町一丁目、堰場どうばとよばれるあたりだ。
 対岸右上の丘陵は大年寺山。左端に見える建物と敷地は、当時ここにあった宮城県農業高等学校である。
 いまはずいぶんと、様変わりしている。対岸の堤防沿いに広瀬河畔通が整備され、山際を国道286号が走り抜け、交差点は大変な交通量だ。
 でも、昭和40年のこの当時は、まだのんびりした空気が流れていた。橋の上の車はわずか2台。橋の右岸上流には畑らしきものが見え、水辺にはたくさんのボートが並ぶ。川面に1艘も浮かんでいないのを見ると、撮影は早朝だったのだろうか。

茶畑の跡 橋を渡りきった右上、大年寺山のふもとに樹木に埋もれるように屋敷がある。長町で茶舗を営む大竹誠一さんのお宅だ。大竹家は、明治3年(1870)、このあたり一帯に広がっていた茶畑を旧仙台藩から譲り受け、東一番丁から移ってきた。
 昭和12年(1937)、食糧増産を背景に麦畑に変わるまでは一面茶畑だったというから、昭和のはじめ生まれの人なら、その風景をいまも覚えているだろう。大年寺山の南斜面で日当たりがよく、背後を山に抱かれて北風が入らないこの地は、茶畑に最適だったに違いない。
 この環境のよさで、根岸は住宅地としても好まれた。大竹さんによると、明治の終わり頃から、退役軍人が好んで隠居したという。のんびりと余生を過ごす別荘地のような雰囲気だったのだろう。分譲もされたらしく、大正15年(1926)年の地図には「ねぎしの里」と記されている。

校舎を背景に一銭橋に並ぶ宮農の生徒たち だが、橋についていえば、不便この上なかったはずだ。川底に杭を立て、幅30センチほどのモミの板を2枚並べただけのもの。宮農の生徒がマント姿で橋に並ぶ写真が残っている。ギシギシ、ゆらゆら…そんなことばを思い浮かべてしまう何とも頼りない粗末な橋だ。
 しかもこの当時の橋は個人所有で、渡し賃を払わなければならなかった。「林さんという家がやっていて、そのお宅は橋のたもと、渡って左側2軒目。“ 船場ふなば”とよばれていたんですよ」と大竹さん。いかにも船着き場を想像させる屋号である。

 


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