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トップページ広瀬川の記憶vol.13

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広瀬川の記憶
         掲載日:2007年07月13日
   フリーライター/西大立目祥子さん
広瀬川の川岸で、戦後の文化活動は始まった


メイン写真

澱橋、川内のキャンプから判断すると、撮影は昭和30年代後半と思われる。
(撮影 小野幹)



■建築家、武基雄(たけもとお)設計による仙台市公会堂

いま 今の青葉区川内を一望するヘリコプターからの眼。川内から角五郎へ、急転回する広瀬川が見渡せる。木造の家並みの中に、ところどころ四角いビルが目立ち始めている。
 いちばん目を引くのは、圧倒的な大きさで左下に写る仙台市公会堂だろう。現在の仙台市民会館の場所にあったものだ。竣工は昭和25年12月で、設計は当時、早稲田大学助教授だった武基雄。戦後の日本の建築界を丹下健三らとともにリードした人物である。
 筆者もおぼろげながら、クリーム色にぬられた外観の記憶がある。最近、そのパースを見る機会があって、魅力的な雰囲気に心魅かれた。2階建ての建物に入っていくと広々とした中庭があり、その向こうには広瀬川と山並みが見通せる。さわやかな風が吹き抜けたことだろう。建物を地面から持ち上げたピロティとよばれる空間構成だ。建物が、川という自然景観に寄り添っている。延べ床面積は約3,000平米。1,500人収容の大ホールを一つ備えていた。
 塩釜市在住の井場重雄さんは、仙台市立工業高校を卒業してすぐ、この現場に携わった。「建築科卒業といっても戦時中で動員ばかり、まともな勉強をしていない。だから、ここが学校でした。教わりながら、原寸図を8割方、僕が引いたんですよ、もうこんなに(笑)」。井場さんが手で示した図面を重ねた高さは、30〜40センチもあるだろうか。技術者も、職人さんも、物資も不足していた時代だった。「技術者は満州引き上げの人が多かったし、鉄筋工も型枠大工さんもいなくて、施工の清水建設(株)がかき集めたんです。戦後もしばらくの間は、鉄筋もコンクリートも統制品ですからね。あれだけの規模の鉄筋コンクリート造りは戦後、東北初だったのではないですか」。

井場さん 公会堂は、武基雄の第一作でもあった。「あの頃の武さんは仏のル・コルビュジェのピロティに凝っていましたからね。というより、建築家はみんなコルビュジェやニーマイヤーなんかにあこがれていたんです」と井場さんは世界的な建築家の名を口にする。長い戦争の時代を経たあとの解放感と表現への希求が、建築家に満ちていたのだろう。
 こけら落としは昭和25年12月17日。名誉市民の土井晩翠と志賀潔を招き開館式が行われ、そのあと記念行事が立て続けに繰り広げられている。英語劇、子ども音楽会、農民祭り、創作舞踊団体合同公演、クリスマス子ども大会…。待ってましたとばかりに、最新の場を得て文化的な活動が動き出している印象だ。「市の文化的象徴だったんですね」と井場さんはいう。戦後の仙台の市民の文化活動は、この見晴らしのいい広瀬川の畔から始まったといっていいかもしれない。

 



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